佐原と成田に行ってきました。
昨日、大田区より委嘱を受けております「地域力推進委員」としての研修会でバスに乗り、千葉の佐原と成田に行ってきました。
佐原(さわら)は千葉県の北部、利根川をはさんで茨木の対岸に位置し、香取神宮にほど近い場所にあります。過去、利根川の氾濫などを経験し、先日の台風でも冠水した場所があるとのことでした。
我々の地元にほど近い田園調布も多摩川に近い一部で、約500戸が床上・床下浸水の被害を受けたばかり。
利根川は江戸時代に徳川家康による江戸の治水事業の一環で、江戸に流れていた川を銚子方面に流れるようになり、以降何度も氾濫しています。
以降、対策が行われてはいるものの、今も川と共存するために様々な苦労をしてきている地域でもあります。
水の郷さわら「川の駅」では、防災教育展示として、これまでの氾濫と対策の歴史などのほか、伊能忠敬による測量の記録なども展示されています。
以前、NHKの「ブラタモリ」でも取り上げられましたが、改めて、自然の猛威と人の努力の歴史を学びました。
次に訪れたのは成田。「航空科学博物館」と「空と大地の歴史館」を訪ねました。
「航空科学博物館」では 飛行機の仕組みや、これまでの飛行機の進歩、成田空港の仕組みについて展示されています。
ひとつ、「なるほど、そうだったのか」と感じたことがあります。それは、飛行機の燃料補給の方法。
空港では、当然、これから飛び立つ飛行機に燃料を供給します。そのため、飛行場の横には燃料を備蓄しているタンクがあります。
海に近い空港では、飛行機の燃料を海からタンカーなどで供給していますが、成田空港は内陸。大量の燃料を消費する飛行機の燃料の補給をタンクローリーなどで行っていたのでは間に合いません。
では、どのようにして供給されているのか。その答えがありました。
成田空港で消費される航空燃料は千葉港の受け入れ施設からパイプラインで供給されていて、そのルートは東関東自動車道の下。東関東自動車道は成田空港への自動車のルートを作るとともに、燃料の供給ルートも兼ねていたのです。
知りませんでした。一つ勉強になりました。
そして、「空と大地の歴史館」では成田空港開港前の地域の様子や開港までに起きた「闘争」の歴史、共存を目指す地域の取り組みなどが展示されています。
大田区にも羽田空港があります。田園調布地区からは離れていますが、空港と共存する自治体です。最近では、羽田空港の滑走路が海側に広がったことで、旧滑走路跡地では再開発も進んでいます。
また、国際便増便に対応するため、新滑走路の運用開始が予定されており、大田区や品川区の一部では新たな飛行経路が予定されており、上空を飛行機が飛ぶようになることについて、騒音や落下物リスクなど様々な問題も浮かび上がっています。
成田空港は1978年5月に開港しましたが、もともとこのエリアに住んでいた方は荒地であった場所を開墾し、生活していました。また、御料牧場(天皇家の牧場)などもあり、のどかな場所でした。そこに急に持ち上がった空港建設計画。
成田空港の開港は、東京、日本の発展に間違いなく寄与しましたが、そこに住んでいた人たちにとっては大きな負担だったでしょう。
成田空港では現状2本の滑走路があり、今後さらにもう1つ滑走路を拡張する計画があります。
成田空港ができたことによって、現在の周辺には多くの経済効果がもたらされてもいます。空港の施設のほか、宿泊施設や物流施設。飛行機の運航に係る様々な産業が空港のシステムの中に組み込まれ、恩恵をもたらしていることも確かです。
開港から40年が経過し、現在のこの地域は空港との共存共栄を目指していることを感じました。
大きな流れの中では、インフラとして空港施設が望まれていたものの、地域にとっては大きな負担を強いることもあります。
これは空港だけではなく、米軍基地、原発、ダム建設、都市における大規模開発などでも同じことがいえると思います。総論では必要、あるいは損失よりも恩恵・経済効果の方が大きいと言えるものでも、一部にはそれにより多大な影響、負担を強いることにもあります。
発展のために必要なものでも、そこには犠牲になる人たちもいます。すべての人に受け入れられるのは困難かもしれない。こうした事業が正しい選択だったとわかるのは何十年も先かもしれない。
しかし、大きな意味で「発展」していくためにはこうした事業の先行きを見通し、理解していただく必要があります。
大きな事業の成功のためには、多くの人の犠牲・負担が存在することを改めて感じた一日でした。